そば食の変遷
そば食の歴史は古く、縄文時代初期までさかのぼることができます。そばは生育が早く、古くは主に備蓄食品として植えられていました。
1)縄文時代
石の上で粉にして食したと想像されている。
2)弥生時代
朝鮮半島から脱穀具の竪臼(唐臼)が入り、表皮を除去する技術を習得し、米のように粒のまま蒸したり、煮たりして食べたと考えられている。もちろん、表皮をとったものを、さらに臼で搗き粉にして食していたことも考えられる。
3)鎌倉時代
この時代、石臼や茶臼が中国から伝来したことによって、そば粉が大量にできるようになり、そばの食べ方も、そば練り(そばがき)、そば焼餅などから、さらに、近世になってうどんの製造をまねた「そば切り」がつくられるようになった。
4)戦国末期〜江戸時代初期
そば切りの初見は、戦国時代天正2年(1574年)長野県木曽郡大桑村須原にある『定勝寺文書』の条に見られる。尾張藩士の天野信景の著書『塩尻』(宝永年間1704年〜11年巻之13)によれば、「そば切りは甲州より始まる、云々。ノノうどんを学びて、ソバ切りとなりしと、信州の人かたれり」と信州から始まったと書いている。
5)江戸・蕎麦切り専門店の出現
そば専門店が独立して江戸市中に出現したのは寛文年間(1664年)あたりからとされている。当時は夜の立ち売りがほとんどで、江戸っ子を鼻にかけている、鳶人足、左官、大工の類の職人、中間や小僧など江戸の下層階級の人たちの食べ物であったという。 当時の書物によれば「けんどん蕎麦切りという物出来て、下々買い食う、貴人食うものなし」とあり、当時江戸では高貴な人は食べなかったようである。八百膳の宴席料理や饗宴などにも素麺は見あたるもののソバは見あたらない。
6)江戸後期・花開いた蕎麦食文化
寛政年間(1800年前後)「藪蕎麦」など有名な店が江戸の町に出現した。
松江の松平不昧公と薩摩の殿様が蕎麦懐石を初めて行ったといわれている。当時の青楼の儀式として吉原では禿(少女)が14才前後になって、新造になる披露目を行う時、茶屋や船宿に蕎麦切りと赤飯を贈たり、また、馴染客が女郎に新品布団を贈り、その敷初めの時に青楼一同に蕎麦切りを贈る習わしがあったという。
(堀江修二:しまねブランド育成アドバイザー/農学博士)